お坊さんに食作法について説いてもらってきた
どうものむらです。
今回は長くなるかもしれないけど、ぜひ目に止まった全ての人に読んで欲しいです。
僕、飲食店をやりたいな〜って思う中で一つ絶対に大切にしていきたいことがあって、それが「食べ物を大切にする」ということ。
そんなこと当たり前じゃないかって思う人も多いと思うんだけど、これが飲食店で働いているとそうでもないのです。
食事 / Jun Seita
居酒屋で働いているとき、例えば20人30人という大人数の宴会の後には必ず残飯が出る。絶対に。100%何かしら残される。
4、5人の少人数だとしばしば全くご飯を残すことなく帰ってくれる人たちもいるけど、大人数に大皿料理を何品か出せばその中の数品は必ず残される。
でもこれはもしかしたら、大皿料理を作っているからかもしれない。
コース料理で一人に一皿を与えたらもっと残される量は減るのかもね。
話が逸れた。
そもそもなんで食べ物って残さない方が良いの?
そんなのどうでも良いと思っている人も中にはいると思う。
僕はただなんとなく「そういう風に躾けられたから」そう思ってきたと言っても過言ではない。
旅をしている時なんかは他人から頂く食事のありがたみも感じたのだけれど、それはその時の状況がそう思わせていただけで、普段の生活に戻ったらなんかやっぱり少しだけ意味が違う。
ただなんとなく、そうすることが善い行いのように思えたから残さず食べてきたし、食べ物を残さないということが僕に苦痛を伴わせるかと言ったら全くそんなことはないので今後もそうする。
曹洞宗の食事に対する考え方
今回お話をしてくれたのは曹洞宗の僧侶。
こんな冊子をいただいて、これに沿ってお話は進む。
この冊子の中にも書かれているのだけど、曹洞宗では五観の偈(ごかんのげ)と呼ばれる食事に関する見方、考え方がある。
全部書いていると長くなるのでその一文目だけ紹介したい。
※「偈」とは教えを説く詩や真理などが書かれた文のこと
一には功の多少を計り彼の来所を量る
(ひとつには こうのたしょうをはかり かのらいしょをはかる)
これは
「目の前の食事に費やされた手間はどれほどか、どこからどのようにして出来上がってきたのかを深く考えます 」
という内容。
僕はこの一文がすごく好きになった。
食事が自分の目の前に並ぶまで、様々な人が関わっている。
野菜であれば、農家はもちろん
野菜を袋に詰めた人。
袋詰めされた商品を運んだ人。
野菜を仕入れて料理を作った人。
料理を運んだ人。
様々なご縁を経て自分の前にならんだ食事に何を思い、どういただくのが善いことなのか。今一度考えたい。
僕にとってはこれだけでも十分「食べ物を大切にする」ということの理由になる。
これは食事以外のこと、物に対してでもそうかもしれない。
それを思わせてくれたのは、イベントの参加者の一人の感想だった。
(様々なご縁が繋がって目の前にきた)食べ物に感謝する気持ちが湧くと、この料理が入っている器もなんだか食べ物と同じくらい大切な物な気がする。
すごく納得させられた。その器が食事を今この目の前に並べるための一つの要素になっているのだから。
食事に関係なくても、身に付けるものや車や自転車でも。色んなご縁を経て自分の目の前にあることを思ったら、どんなものも大切にしなければいけない。
命を奪うとはどういうことなのか
ここで少し話は変わる。
僧侶の食事で「精進料理」が有名だけど、あれには肉や魚は使われていない。
お坊さんは殺生をすることを禁じられているからである。
でも出された食事に肉や魚が入っていたら食べるし、卵も食べるらしい。
それがベジタリアンとは違うところのようである。
お話ししてくれている西田さんは問いかける。
「食肉加工工場で豚や牛や鶏を食べられるように加工している人たちは長い間差別され続けてきた。でも我々だって卵や肉を食べるではないか。心臓を止めた時がその動物の”死”なのか?食材としての”肉”となった豚や牛や鶏を食べる我々がしていることは、工場の人となにが違うと言えるのか。」
「植物は?野菜や果物は刈り取って食べても良いのか?植物は生きていないのか?」
ドキリとさせられる問いかけだ。
さてみなさん、どう思いますか?
ところで、お釈迦様も肉を食べていたらしい。
自分で動物を殺めて食べていた訳ではないけど、目の前に出てきた食事に肉が入っていれば必ず食べていたそうだ。
仏教の教えでは「その働き(役割)を奪うことが殺すことである」というものがあるらしい。
(もちろん物理的に心臓を止めることが殺めることであることは仏教でも認められているとは思うのだけど)
僕はその教えにすごく感動した。
それでも、ある意味でいうと僕らが"生きている植物や動物"を自分達に都合よく「お前は生きてる時は酸素発生装置!刈り取ったら俺のメシ!!」なんて捉え方も出来なくはない。
それらが生きている意味を変えても良いかどうかはわからない。
無意識だけど僕らがやっていることはそういうことなんじゃないだろうか。
だから結局のところ考え方について正解はないと思う。
でも僕はまだ生きていたい。
そのためには植物も動物も殺めないと生きられないのだから、少なくとも僕は食材となった植物や動物を大切に食べたいと思う。
それが食べ物として頂くものへの精一杯の感謝と敬意の表し方だと思うから。
飲食店としてできることってなんでしょう
僕は食べることが好きだ。美味しいものを食べている時に幸せを感じる。
飲食店として僕が出来ることは「お客さんに美味しく食べてもらう」ということだ。
僕らが作るものが美味しくなくて残されるのであれば、食べ物が無駄になってしまうことの責任の一端は僕らにもあることになる。
食べ物を大切にしてもらうためには、きっとシステムも大切だと思う。
ご飯半分に減らしてください…って頼まれたから半分に減らしてあげたのに、やっぱりもう少し食べたくなったのでおかわりくださいって照れながら言ってきたお姉さんが可愛かったから今日はもう良い1日です。
— のむら (@knmr50) 2017年5月14日
ついでにこれは"一口だけ残す系女子"に見習ってほしい高等技術。
僕がこのツイートに最後の一文を付け足したのは、ご飯を残して欲しくないから。残すなら最初に少ない状態スタートにして欲しい。だからご飯のおかわり無料で出来ますので、と言っているんだ。減らして足りなかったら追加すれば良いだけじゃない。それで勿体無いがなくなるじゃないか。
— のむら (@knmr50) 2017年5月14日
お代わり自由って、すごくない?
うまく使えば無駄がなくせるんだよ。
話逸れた。
色々書いたけど、食事って生きるということと切っても切り離せないことだし、毎日のことだから、それを大切にしたら、毎日がどこか少し良くなるんじゃないかな。
様々なご縁で目の前に並んだ食材を、感謝を持って美味しく調理して、大切に食べてもらえるようなお店を作りたい。
というわけで!
美味しい飯食いながら楽しく乾杯しよ〜
6月4日に料理を美味しく作ってくれる相棒と出店しまーす!!
イベントページ
みんな来てね!!
宣伝で終わり!!笑